Monday, November 14, 2005

Brand Hijack〜Is This Marketing?


Mac教の信者は、凡庸なWindows勢力の人々と理解しあおうなどとは思わない。空港のラウンジでBookを開く、遠くから歩いてくる見ず知らず男が、かたわらを通りかかった時に一瞬ニタっとすればそれだけで満たされる。ブランド族とはかくあるものなのかもしれない。
ア レックス・ウィッパーファース(酒井泰介訳)『ブランド・ハイジャック〜マーケティングしないマーケティング』日経BP社、2005年は、最新のブラン ドの書である。著者らは、ブランド族の分析にあたってカルト集団との類似性を指摘するに至る。とりわけブランドやカルトの「勧誘」方法の類似性に関心を示 している。両者における勧誘は、強制ではなく、誘惑を武器にする。少しずつ深みに入っていく。
マーケティング調査において、従来型のインタビュー などは意味をなさなくなっている。文化人類学的なアプローチが重要になったとしている。著者は、ブラン ド族(brand tribe)を、アーバン・トライブスとの関係のなかで説明している。もはや族化は社会的トレンドとなっているとされる。現役マーケッターの言葉であるだ けに説得力もある。これからの調査は、アーリー層の文化を深く調べ、確実に脈打っている社会的潮流を明らかにするものとなるという。
さて、ブラン ド・ハイジャックとは、消費者にブランドづくりはまかせよということである。マーケティングしないマーケティングのすすめである。いうまでも なくそれは文字通りではなく、より困難で緻密なマーケティングプロセスを意味する。スターバックスは通常の広告活動に資金を投入しないが、プロモーション 全体への支出額は他の企業と変わらないとされる。イーベイ、ナップスター、レッドブル、ディーン(民主党候補)、イケア、リナックスと、素材満載で、枠組 みもしっかりしていてぶれない。「いかした」ブランド本の誕生である。

Bourdieu in Marketing Theory


ミクロの消費行動の分析からマクロの消費パターンの解明を、いかにして導きだすかという問題は、マーケッターやマーケティング研究者であれば、かならずぶつかるテーマである。このような問題設定に解決の方策を示してくれるのが、ピエール・ブルデューの社会学である。
主 体的行為に関心を集中させるのではなく、とはいえ、客観的構造の分析で事足れりとするのでもない、構築主義的構造主義がブルデューの立場である。それを 具体的に示しているのが有名なハビトゥス概念である。わたしたちは、ゲームにおける行為者として、ゲームの規則に拘束されているのと同時に、自由な戦略的 対応をすることも可能である。それがハビトゥス的実践である。
ブ ルデューの代表作といわれる『ディスタンクシオン』における「社会的位置空間=生活様式空間」の図を、マーケティング関係者がそれとしらずに見 れば、おそらくよくできたマーケットセグメントのモデルに見えるであろう。ブルデューは、資産の総量、職業的位置、そして文化的資本と経済的資本間の比率 から、分析をおこなっている。趣味の違いやライフスタイルの差異は、ブルデューにおいては現代的階級分析の中心に位置づけられるのである。もちろん、図式 化された階級間関係の構造は、不変ではなく可変である。
フランスのレギュラシオン経済学が、その中心的概念である「調整様式」や「制度諸形態」を 形成するにあたって、ブルデュー社会学、ハビトゥス概念を重用し たことはよく知られている。近年、マーケティング研究領域においても、文化論アプローチを模索する研究者達によってブルデュー理論の検討と応用がすすめら れている。
偉大な研究者の没後3年が経過した。ブルデュー階級論とマーケティング領域における文化論的消費分析、両者の融合は時代の要請といってもよいだろう。

Sunday, November 13, 2005

7/11Japan〜Where do you want to go?


学 生が出席カードを使って質問をしてきた。「立ち読み禁止の張り紙をしているコンビニがあるが、あれはおかしいのではないか」。確かに、通常、立ち 読みをさせなくてはならないと、説明する。店に客がいることを示して安心感を与えなくてはならないからと。少し、具体的に情報を提供するように求めたら、 出てくる出てくる。しかもすべてセブンイレブン。印刷物なので、組織的に違いないという。
取扱サービスの多様化や取扱製品のPB化などまで は、楽しませてもらったし、時流に乗るものと評価もした。しかし、製品の値引き戦略から少し戸惑いを覚え るようになった。低価格戦略につっこんでいって立ち往生している間に、カフェ勢力に都心部を中心に惨敗を経験することになったマクドナルドの経験が思い出 された。
さて、立ち読みの件、セブンイレブンの公式サイトに、はっきりと立ち読みはお断りと宣言してある。しかし、最初からそのようなことを明言していたわけではないし、ライバルのローソンではそのようなことはやっていない。
どうやらセブンイレブンは、「コンビニ」から脱皮しようとしている。どこへ向かおうとしているのか、興味深い。

Sunday, November 06, 2005

"Lower-Class Society" 〜Viewpoint of 80s

下流社会の住人は、人生への意欲が低い。なるほどこれは当たっているかもしれない。下流は、自民党とフジテレビが好き。これも当たっている。この本が売れ ているのもうなずける。「新たな階層集団の出現」という、意義深いテーマの設定で、しかも消費社会論の視点からこれを分析しているという。現代を「金塊 巻」したともいえる手法はなかなかに良い。こなれた記述もあって、あっという間に読ませてしまう。三浦展著『下流社会』光文社新書、2005年、これぞ新書といえる好著である。
で も何かが違う。しかも、何かなつかしいものさえ感じてしまう。80年代的なのである。かくいう私も渡辺和博など好きだったし、手法などはいまでも使える と思っている。ただ、この本が現在の何を表現しているのかといった場合、それはあまり明確ではない。上流は社交的で下流はだらしない。上流はゴルフにス キー に多趣味で、下流はパソコン・インターネットで引きこもり、とされるが、これで現代の何を説明しようとしているのだろうか。消費社会論的には、社交の中身 がもっと問われるべきであろうし、インターネットの中身も問われるべきなのではないだろうか。第2章「階層化による消費者の分裂」は、現代の消費社会的風 俗を知る上では大変面白い。しかし、マーケティングの現場ではそれほど新しい試みとは言えないだろうし、やはり視点が80年代的に思えてしまうのである。 時あたかもバブル前夜の様相を示し始めた現代を80年代になぞらえているのかと、深読みしてしまったりする。
スーツを着た身なりの立派 な大人が上流で、昼間っからぷらんぷらんしているヤングが下流というのも、いかにも苦しいのではないか。やるだけのことをやっておきながら、カメラの放列 の前で土下座する三菱自動車や明治安田生命の連中が上流のトップなのであろうか。今流行りのクリエイティブ系も、しょせんはスーツ親父の手のひらで踊って いるだけで下流にとどまるというのだろうか。
一流大学の入試改善や、その講義のインターネット化、あるいはまた、地方から東京の大学へ進学するも のへの援助が、階層固定化の防止策だという。ジョーク かと思ったが、どこにもジョークとは書いてなかった。ここにいたっては、すでに80年代的視点さえも消えてしまっている。もっともホリエモンや、ミキタニ や、ムラカミなどを「上流」と考えると、現実的な提案なのかもしれない。あまり趣味の良い国家にはなりそうにないのだが、どうだろう。

Thursday, November 03, 2005

Macromarketing〜Remember the Titans

マクロマーケティング学会が結成されて今年は30周年である。フロリダで開催された本年度の大会ではGeorge Fiskなど結成時からのメンバーによる記念シンポジウムも企画された。時代の要請とともに、学会は規模を増していく。分科会活動も盛んになっている。し かし、活動が拡大するにつれて、基礎理論の求心力は失われていく。このような危機感を反映してか、今年の大会統一テーマはRemember the Titansであった。Aldersonなどの理論をいまもまじめに議論する学会のスタンスは貴重なものである。
いうまでもなくマクロマーケティン グというネーミングには、ミクロマーケティング/マネジリアル・マーケティング研究に対する批判が込められている。ある いは批判的マーケティング姿勢そのものがマクロマーケティングなのかもしれない。もっとも批判的というのは、=企業批判というわけではないのであるが。
マー ケティングを社会との緊張関係の中で論じる。あるいはその社会的意味を考えることこそ、マクロマーケティングである。変動期のマーケティングを理解す るためには不可欠の姿勢だと思われる。ブランド論の向こうに社会をいかにして見るか、Remember the Titansである。

Tuesday, November 01, 2005

Brand as Icon


社会的動態にともないある種の間隙が生じる。1974年10月から放映されたテレビドラマ『傷だらけの天使』。脚本家の市川森一は、氏の脚本冒頭に「鳩が、糞をたれて、飛び立つ」と書いた。
高度経済成長をへて繁栄へ飛び立つ日本に、取り残された存在こそ、ペントハウスを根城とする主人公達であった。深川連続通り魔殺人事件が起きたのは1981年のことである。白いブリーフ姿で逮捕された川俣軍司は社会的動態に乗れなかった悲しい男として犯罪史に刻まれた。
写 真家藤原新也の一連の作品は、80年代に続出する一連の事件を、時代の間隙に生じるべくして生じた事件として提示し、それらは来るべき時代の予告の書となった。 1989年宮崎勉事件、1990年代に入ってからの一連のオウム真理教事件は、時代が完全に反転したことを示した。混沌とした時代の中で生きることこそが 常態であることを我々は思い知らされたのである。
一つ一つの犯罪や事件が時代と無縁ではないように、商品やブランドはその時代を生きる。時代との きり結び方を見せてくれる戦略、それがブランドである。 Douglas B. Holt 『ブランドが神話になる日』(ランダムハウス講談社、2005年)は、ブランドを通じたアメリカ社会論である。労働者賛美型プロモーションから友情関係支 持型プロモーションへとシフトしたバドワイザー、急速に2極分化する社会構造の中で取り残されるスラッカーと呼ばれる少年達の心をつかんだマウンテン デュー。センスの良さが光るブランド選定と、秀逸の戦略解説は、読み物としての魅力も併せ持つが、硬派な社会分析が今までにないブランド論の可能性を見せ ている。(写真:非マーケティングでユートピアを演出し、一時代を築いたスナップル/なんと名古屋セントレアで入手、撮影)